なぜ大自然の中にいると悩みが小さなものに思えるのか。「唯識の思想」から考えた私なりの答え。

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大自然の中でひとりになってみる。

少し怖い。

周りに人影もなく、たったひとり。

誰でもいいから誰かにいてほしいと思う。

   

例えば薄暗い森の中。

真っ暗闇のなかで

満天の星空だけが浮かび上がる世界。

打ち寄せる波の音だけが響く渚。

  

やがて自分の力など及ばない

圧倒的なパワーにどんどん引き込まれていき、

いつの間にか吸い込まれる。

   

自然と一体となり、

自分は個の存在ではなく、

自然の一部であったことを思い出す。

   

人間社会における

小さな悩みに囚われているのが馬鹿らしくなって、

気持ちが軽くなる。

どうして自然に溶け込んだ自分を感じることで

こんなにも気が楽になるのだろう。

いつも不思議に思っていた。

    

「唯識の思想」

仏教の宗派を問わず

教説の中心に据えられている「心の思想」である。

    

現代も学ばれている唯識学は、

眼識、耳識、鼻識、舌識、身識(感覚的意識)、

意識(理性的意識)、末那識(フロイドの無意識的意識に近い)、

阿頼耶識(宇宙的意識)の八識の段階に分け詳細な分析を行う。

   

この八種類の識によってのみ、

あらゆる諸存在は成り立っている。

自分を含めた諸存在は、個人的な識でしかない。

主観的なものであり、客観的な存在ではない。

生滅を繰り返し過去に消えてしまう。

すなわち「空」であり実体はない。

    

「私は空である。」

この思想に出会ったとき

なんだか最初は寂しい気がした。

大自然の中、放り出された

無意味なひとりぼっちの存在に思えたからだ。

しかしそうじゃない。

そう思ってしまうのは、

自分の意識にのみ囚われて

それが全てであるという

思い込みのためではないだろうか。

  

「我を捨てよ。」

とはまさにこのことであろう。

自分の意識という「我」の壁を越えたとき

我を捨て周囲と一体になる感覚を思い出せたとき

自然の一部である自分は孤独なんかじゃない。

そう気づければ一体感を感じながら生きていける。

  

なぜ大自然の中にいると悩みが小さなものに思えるのか。

「無我」の状態に一瞬でも近づけたからなのかもしれない。

少なくとも自分という意識の壁を壊すことができたからに他ならない。

私は特別でも何者でもない。

自分と大切な人たちの意識の中だけの存在

あの星のひとつであり、海水の一滴、

砂浜の砂の一粒、森の木立の中の一本でもあるのだ。

 


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